一、御神徳 学問の神、芸術、武術にも優れ苦難の生涯を経たことから、勝運の神様として信仰されその御神徳は広大無辺である。

一、御社号 明治三年に洞ヶ島(ほらがしま)神社と称し、昭和二十四年十一月、大神様の御名を冠して、薫的神社と改称した。一般には常に「薫的さん」の名で親炙されている。





伝説によれば寛永二年(一六二五)関白太政大臣・一条兼良の子孫、土佐の国主、一条兼定公の姻戚で随臣、池田中納言薫友卿を父とし、高知県四万十市の住人、康松安兵衛の娘、於萬の方との間に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の禅宗曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。

瑞應寺は長宗我部元親の菩提寺であり土佐第一の大寺であった。長宗我部家が滅亡して山内家が入部し新国主となり、新しい菩提寺として高知市潮江に眞如寺(しんにょじ)が設けられる。瑞應寺の同宗であったため時勢の交替が宗門にも反映してくる。それが寛文四年(一六六四)十一月二十四日、二代藩主山内忠義の薨去(こうきょ)を機に表面化する。菩提寺である眞如寺住職了谷が撰んだ戒名は「竹巖院殿龍山雲公大居士」であった。瑞應寺薫的和尚は同年七月から同九年八月まで、輪番として越前(福井県)の永平寺に出向中であった。


不在中のことで忠義法会のことには関与する機会が無く寛文十年十一月第七回忌法会に際して初めてその席に列することになり、薫的和尚は「巖上の竹」は枯れる。不吉だ。「松巖院」とすべきと了谷和尚の戒名文字の不穏当を指摘、その改撰を警告したが容れられない。ついで法会の当日の座列が眞如寺の下位におかれ、宗門の掟が無視されている。薫的和尚はその不当を抗議したが、藩当局はとりあげようとしない。眞如寺が山内政権と結びついて私意を遂げようとしているのは明白である。

薫的和尚はやむなく事の次第を宗門支配の周防国(すおうのくに)長源寺(ちょうげんじ)に訴願、その決裁を受ける決意を固め、訴状を脇寺の芳心院敬山(ほうしんいんけいざん)(後に還俗し俗名は北川谷水)に託した。ところが芳心院は眞如寺に内通してしまう。眞如寺から知らせをうけた孕石頼母(はらみいしたのも)ら藩の重役達は、ついには無実の罪で薫的和尚を入獄。激怒した薫的和尚は、自ら食を断つこと七日、寛文十一年旧正月十日舌を噛み切り憤死された。享年四十七才。

和尚の遺骸は、小高坂山東の谷の住人、郷士西内半次正義が密に貰いうけ、現高知市三の丸の私有地の畑の一隅に埋葬、光善芝と名付けて松を植え、牛馬を繋ぐことを禁じた。墓はいつしか忘れ去られていたが、山内主馬の実母光善院の命により半次の孫西内清太夫義茂の案内で発見され、瑞應寺境内、現在の薫的神社御本殿後方鎮座の霊光塔に改葬。後に薫的堂として瑞應寺境内の岩山に設けられるようになった。

「明治維新神仏分離史料」には明治三年(一八七〇)の廃仏毀釈により瑞應寺及び末寺四十五箇寺も廃寺になったと記録されている。薫的大神の信仰は廃仏毀釈の中、神社として存続し今日に至る。





写真 薫的和尚出生の地、高知県四万十市崩岸の西方・佐岡の現在東山小学校の奥のイガヤ谷に黒岩様という大岩があり、江戸時代末頃より薫的和尚の生母の霊を祀った清川神社とともに佐岡薫的神社がある。四万十市を中心とした幡多郡全域の崇敬者を有する庶民のお宮である。





○ 月祭(おつや) 旧 毎月九日 ○ 秋大祭 新 十一月二十九日